喜田家について

● 喜田家の歴史

 

創業1955年。
地元でずっと愛され続けてきた和菓子本舗です。

 

喜田家が千住の地に根をおろさせていただいたのは昭和30年、もう50年以上愛され続けてていることになります。ありがたいことだと、感謝でございます。ご利用いただいております足立区内20店舗のそれぞれの最寄りのお店を日頃から可愛がって頂き、店長一同からも有難うございますと感謝です。ほかにも見えないですが、工場で毎朝6時から新鮮なお菓子づくりに精を出している職人たちからも有難うです。

和菓子の喜田家は昭和30年に千住寿町に生まれました。終戦後10年目でした。父(先代)は40歳のときに母と二人で喜田家を創業しました。父が小さい頃、借金の保証人で家が一家離散。兄弟はバラバラに丁稚奉公にやられ、奉公先では弟と一緒に小学校に行かせてもらったのですが、(なぜか)お弁当は弟の分しか持たせてくれなかったそうです。でも小学校に行かせてくれて、弟のお弁当も持たせてくれることだけでも有難いことだと感謝し、自分自身は「校庭で自分は食べたふりをしていた」という話を聞いたことがあります。

兵隊に行った時の話しです。もともと父は手先は不器用な方ですが、体を動かす事に関しては輪をかけて不器用だった様で・・・あるとき乗馬の練習をさせられたのですが、木に身体がぶつかって馬だけいっちゃった…なんて事があり、その後は上官から「田口、おまえは何やらせてもたいしたことないから、食料の係をやれ」と任命されたそうです。当時のその経験が生きて、終戦後の何もない時代には、粉と砂糖をどうにか入手して、栗まんじゅうをつくって売る事をやってみたら、飛ぶように売れたそうです。

ある木枯らしのふく夕暮れ、「おまえたちは外にいなさい」と、妹と私は寒い外に出されました。家の中では、友人と共同経営でやっていた栗まん屋が、あまりにも父が店を繁盛させるので友人の奥さんが気持ち良く思わず、うまくいかなくなってきたとの事。「それならば自分はやめた方がいい」という判断となり、突然失職してきたと言う話をしていたそうです。

繁盛するばかりでも難しいのですね。その日の両親の会話を、当時小学3年生だった私はそのように記憶しています。

そしてその後も紆余曲折があり喜田家の原点となる、どら焼きにいたるわけですが、とにかく、どら焼きを焼いたことない父でしたので苦労の連続でした。始めの方に試しに作ったどら焼きは、みんな亀みたいになってしまうのです。お好み焼きであんこ巻きをやるときのように。でも“飛ぶように売れる栗まんじゅう” を作れる腕を持つ父でしたので、その後は研究と試行を重ね、長い事かけて今のどら焼きを完成させたのです。

その後、幼い頃遊んだブランコのある自宅の庭は台所とつながり、知らないおじさんが2人入ってきて和菓子の工場となりました。ひのえ午でとても気丈な祖母が当時、「何で私が今更60歳のこの年で餅のヘラ返しをやらなきゃいけないの」と言っていたのを覚えています。その祖母も100歳の大往生でした。

こうして昭和30年、「ひさご最中」と「どら焼き」から喜田家は始まりました。でもその当時、商売用のお砂糖1升を買うか、食べるお米を買うかの選択を迫られるような状態でした。

上生菓子をつくる職人さんには、こんなちっぽけな店で「上生なんか売れるわけない」とバカにされた父でしたが、職人さんに上生をつくってもらうために、毎日荒川に上生を捨ててきては「今日も売れたよ」と売れたふりをして仕事をさせたという事です。ゴミ箱に入れたのでは見つかってしまうから、職人を使い続けるためには売れたふりをしなければならなかったのでした。

気がついてみれば、“おしん”みてエな話は、自分のそばにもしっかりあったことに気付きます。「苦労は買ってでもしろ!」は、誠に意味深いことばであります。ハイッ。

というわけで、先代両親もなくなり今年は創業54年目を迎えるのですが、私も小学3年生から早やウン○歳となりまして、今まで喜田家とハルエグレースを支えて下さった大切なお客様にはいつも感謝の心でいっぱいなのです。いつもありがとうございます!そしてこれからもどうぞ喜田家とハルエグレースを宜しくお願い致します。

 

平成20年9月  田口 恵美子
ちゅーりっぷ通信VOL.1より抜粋